何かの淵に立たされたとき「あぁ、あの時本当に死んでしまえばよかった」と思う。

胸に包丁をあてたあの時に思い切り突き刺してしまえば、あるいはロープを首にかけたあの時にそのまま締めてしまえば良かったのに、と思うのだ。

 

最初のそれは中学3年の夏だった。

部活を引退し、本来なら受験勉強にあてられるのであろうエネルギーを持て余していた。

好きなことも、やりたいこともなかった。

「一緒の高校に行きたいね」なんて言い合う友人を持ち合わせているはずもない。

ただ額に浮かぶ汗を不快に思いながら、フローリングに寝そべっていた。

責め立てるようなセミの鳴き声に耐えきれず、キッチンに移動して包丁を手に取った。

胸にあてたそれからは温度は感じない。

服の上からあたる、刃先の硬さだけが伝わる。

思いの外、手は震えないんだなと静かに思った。

手を少し押し進めて気がつく。

この包丁、全然肉が切れないんだった。

そうして死ぬのを辞めた。

力いっぱい肉を割いていく気力もなかった。

ただ、自分はいつでも死ねるんだと分かったことで心が凪いだ。

 

2度目は高2のときだったはずだ。

夏休み明けのテストが終わり、学園祭の準備期間に入った頃のこと。

普段はしかめっ面の生徒指導の先生も笑顔をみせるくらいには、みんな浮き足立っていた。

かくいう自分も非日常を楽しんでいたと思う。

そんななか買い出しでホームセンターをウロウロしているときに見かけたトラロープが、なぜか魅力的に見えて思わず買って帰ってしまった。

魔が差すというのは、こういうことなのだろう。時も場合も選ばない。そこに感情は介入できない。

縄の結び方を調べて、輪っかを首にかける。

果たしてこんなもので息が止まるのだろうかと思っていたところで、友人から着信がきてロープから興味が逸れた。

ロープはその後すぐに捨てたはずだ。

 

逃げ出したくなっても不思議なことに3度目はおきていない。その2回の夏に縋って生きている。

死の香りがするたった2度の夏に生かされている。

"友達"は難しい。

抽象的で関わり方の指針が不明瞭だ。

大抵の場合はいつか終わりがくる。ただそれが今ではないだけ。でも、そのことを口に出すと非難される。

その点"仲間"はいい。

目的が明確で、道を違えたらそこでさようなら。

なんとなくではあっても全員が終わりの瞬間を心の片隅に置いている。

 

いつまで一緒にいてくれるか分からない人には、怖くて容易に踏み込めない。 悪いなと思うものの、相手にそれを指摘されるのはきついものがある。

割り切った関わりは楽だし安心できる。

寂しいと思わないわけではないが、ただそれだけだ。ただ少し、冷たい風が身に染みるだけ。

 

大人になるにつれて傷つくことに鈍感にならざるを得ないし、辛い道は避けて歩く。多くの人がそういう強さを獲得していく。

でも本当は、色んなことにちゃんと傷ついて涙を流して、それでも歩き出すような人が一等強くて、美しい。

 

強さも美しさも、ただ眺めていられればいいと思う。

欲しいものを掴みに行くのは苦しいから、光はただ願望として遠くにあればいい。

流星にならなくていい。

ずっと遠くに、見上げるくらいの距離で輝いていてほしい。

 

ハグをするとストレスの3分の1が解消されるなんていうのはよく聞く話だ。

オキシトシンが分泌されることにより精神安定効果のあるセロトニンの分泌が促されるらしい。

 

自分の生活圏内にはスキンシップが存在しない。

友人との別れ際、握手を求められて一瞬パニックになる程度には、他人との言葉以外の接触に不慣れだ。

「せっかくだから握手しましょう」と手を差し出す人の、「またしばらく会えないからギューってして帰ろう」とハグを求める人の、その言葉を口に出せるまでのプロセスが何ひとつ分からない。

 

皮膚は露出した脳だという記事を読んだことがある。

幼少期の肌の接触は生き方や人間関係の形成に大きな影響を与える、みたいなそんな話だったと思う。

もらったものがギフトになるか、呪いとなるかは本人次第だろうけど。

 

私には呪いが残った。

そうとしか受け取れなかった。

それらは緩く首を締めるだけで、息を止めることはしてくれない。

自尊心は地を這っているが、それが僕を僕たらしめている。浄めはしない。受け入れて、共にいきていくしかない。

 

随分と冷え込むようになった。

着込んでいても、自転車に乗れば吹き付ける風は冷たい。

 

色付いた木の葉がひらひらと落ちていくように、自分の内側から何かが削ぎ落とされていくような感覚に陥る。

この時期はいつもこうだ。

乾燥していくのは空気だけではない。

心が冷えてカサついていくのがわかる。

足りないものしかない。

人から熱をもらっても所詮それは借り物でしかなくて、外側を撫でていくだけ。

これを寂しさと呼ぶとするなら、それは陳腐な表現だと言わざるを得ない。

形容する言葉を持たないことは苦しい。

それは長年の怠惰の代償だといわれれば頷く他なのいのだけれど、それを受け入れられるほど強くないし、開き直れるほど陽気でもない。

言葉にできないことに責め立てられている感じがする。冬は特に。

 

この先、地球温暖化が進んでいくと紅葉シーズンは12月にずれ込み、冬は短くなるらしい。

そうなったらどうしようもない感じもどこかに溶けていくのだろうか。

少なくとも8月が過ぎても止まない夏の香りにじわじわと殺されていくのは目に見えている。

何にせよ苦しさの総量は変わらない。

息が詰まる時間は年々長くなっていく。

 

じっとりと汗ばむ肌を、少し冷えた風が撫でる。

 

中途半端。

 

曖昧で混沌としていて名前をつけがたいこの季節は、夏にも秋にもない優しさがあるように思う。

何でもかんでも白黒はっきりさせようとしてくる人は苦手だ。

物事に名前をつけてラベリングをして分かったような気になりたくない。

選ぶのが難しくて、でも選ばないのも選択だから息苦しい。

グレーでいたい。

 

そういうのを全部許してくれるような空気で満ちているように思う。

この優しい温度を記す言葉をまだ知らないけれど、それでいい。